少し前から、杉田水脈議員による「LGTBの人は生産性がない」「生産性がないから税金を投入して支援を行う必要はない」という趣旨の発言がかなり話題になり、物議をかもしていますね。
抗議運動を行う団体もあったりなんかして…
ネット上などでも様々な意見が出てきていますよね。
私はLGBTに該当する訳ではないのですが、「生産性かぁ…」と思ってちょっと考え込んでしまいました。
今日はLGBTと『生産性』の一連の話を見聞きして、考えてみたことを書いてみたいと思います。
LGBTに関することというよりは、「LGTBの人は生産性がない」という発言きっかけで『生産性』について考えたことについて書きました。
なお、LGBTに関することにはあまり触れていませんが、ご了承下さい。
では、どうぞ~
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『LGBTの人=生産性がない』は間違っている。
杉田議員は、『LGBTの人は生産性がない』という趣旨の発言をしましたが、それって本当でしょうか?
ここで言う『生産性のある・なし』とは、文脈から考えると、『子供を産み、育てるかどうか』だと捉えることが出来ます。
少子化だから?
人口が増えないと、この先の日本の未来が危ないから?
日本の未来を担う子供を産み育てることは生産性がある、ということなのだろうと思います。
そもそも『生産性』という言葉は、どんな意味なのでしょうか?
Wikipediaでは、以下のように定義されています。
経済学でで生産活動に対する生産要素(労働・資本など)の寄与度、あるいは、資源から付加価値を産み出す際の効率の程度のことを指す。
一定の資源からどれだけ多くの付加価値を産み出せるかという測定法と、一定の付加価値をどれだけ少ない資源で産み出せるかという測定法が在る。
(引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/生産性 )
子供を産み育てるかどうかだけに言及している言葉ではありません。
『生産活動』全体に言及している言葉です。
『生産活動において何らかの付加価値を生み出すこと』=『生産性がある』という状態
なのだと思います。
そう考えると、『LGBTの人は生産性がない』訳がないですよね。
生きている中で、様々な付加価値を生み出していると思うので。
そして、これはLGBTの人に限らないと思います。
人は皆、さまざまな分野で、さまざまな側面で、何らかの付加価値を生み出しているはず。
そう思います。
また、言葉レベルの話ですが、『生産性がない』っていう表現自体、実はおかしいんじゃないかな?とも思いました。
生産性に関しては『生産性がある・ない』じゃないくて、『生産性が高い・低い』ではないかと。
『生産性』=『どれくらい付加価値を生み出せるか、その度合い』ということなので。
そこも個人的には引っかかるところでした。
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『支援する・しない』を決める指標が『生産性』というのもおかしい。
『生産性が高い・低い』というのはあり得ると書きましたが…
支援するかどうかを決める指標が『生産性』だということもまた、すごくおかしな話です。
生産性が高い=国への貢献度が高い=支援するに値する(価値がある)
ということですよね?
支援って何のためにあるんだろう?と甚だ疑問を感じます。
『支援』って、生きづらいと思っている人を生きやすくするためにあるんじゃないでしょうか。
そして、政治が目指すべきところって、『一人でも多くの人が幸せに生きられる社会を実現すること』なんじゃないでしょうか。
『支援する・しない』を『生産性の高低』で決めるということは、『皆が幸せに生きられる社会の実現』を考える上では、真逆のことです。
たとえ生きづらい人がいても、その人が生産性が低いとしたら、支援しないということですから。
生きづらい人は依然として生きづらいままなのです。
生産性が高いから支援する、生産性が低いから支援しないということは、生きづらい人を切り捨てるという考え方なのだと思います。
『生産性』で判断される社会は、特定の人にとってだけでなく、全ての人にとって生きづらい社会。
生産性が低い、だから社会への貢献度が低い、よって支援されるに値しない…
『生産性』で人の価値が判断されるような社会というのは、『生産性が低い』とされている人にとってだけではなく、全ての人にとって生きづらい社会だと私は思います。
なぜなら、たとえ今は『生産性が高い』とされている人でも、何かあって『生産性が低い』という状態になってしまったら、価値が低い、支援に値しないとされてしまうということだから。
突然の病気やケガ、不慮の事故…生産性が下がってしまう可能性はあらゆるところにあります。
そして、そういった突然の何かが起きなかったとしても、『老い』があります。
例外はあると思いますが、一般的に、老いれば『生産性』が下がる可能性は高いです。
杉田議員の『生産性』の話を肯定する人は、
自分は社会貢献度の高い仕事をしているから
自分には子供がいるから
生活に困らないだけのお金を稼いでいて、何の支援も必要ないから
自分は『生産性』が高いから
だから、『生産性』で人の価値を判断しても良い
と無意識のうちに思っているのではないかと思います。
でも、『生産性』などというものは、自分の意志や努力とは無関係に下がってしまう可能性があります。
それなのに、自分にも『生産性が低い人』になってしまう可能性があることを理解していないのではないかと思います。
特定の人にとって生きづらい社会は、特定の人以外にとっても実は生きづらい社会です。
特定の誰かを切り捨てる社会は、切り捨てられる側にならないように気を付けて生きなければいけない社会であるという意味で、全ての人にとって生きづらい社会だと言えるからです。
まとめ
以上、「LGTBの人は生産性がない」という発言から『生産性』について考えたこと、でした。
なんだかうまくまとまらない部分もありましたが、思ったことを書いてみたい次第です。
読んで頂いてありがとうございました。
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コメント
こんにちは。
生産性という言葉のとらえかたで
いろんな議論ができますよね。
人それぞれに考え方が違うのは
全然問題ないと思いますが
発言する立場は考えたほうがいいのでは?と
思った騒動でした。
たっきーさん>
コメントありがとうございます。
たしかに生産性という言葉の捉え方で、いろいろな議論が出来ますね。
考え方が違うのは私もわかるのですが、政治家として正直あの発言はないなと思いました。
多様性が認められる社会になって欲しいとつくづく思います。
あやぞぅさん、おはようございます。
杉田水脈議員による「LGTBの人は生産性がない」という発言はどう考えても間違っていると思います。杉田議員は子持ちだから生産性があると主張する態度は、「同性愛者だけじゃなく結婚する意志がない独身の人は子持ちになる事はないから生産性がない。」と侮辱しているように思います。子持ちの親ってそんなに偉いのかと疑問に思いますね。さらに子供を虐待する親に生産性があるとは絶対思えないです。どんなにもっともらしい事でも言って良い事と悪いことがわからない国会議員がいる事自体子供の教育に良くないですね。
しゃんしゃんさん>
コメントありがとうございます。
そうですよね、私も杉田議員の発言は間違っていると思います。
子供を産む=少子化に貢献している=生産性がある、ということなんだと思いますが、その尺度のみで人の価値を図ることが理解出来ません。
そして、おっしゃる通り、子供を産みさえすれば良いのか?というところには私も疑問を感じます。
こんな人が国会議員だったんだ…と私も思ってしまいました。
いろいろな意見があること自体は仕方ないのかもしれませんが、こういう考えの人が国会議員だというのはなんだかなぁと思ってしまいます。